前回の記事の続きです。
浄土真宗における伝道成立の判断基準を、「念仏をするようになる、もしくは念仏を聞くようになる」ところに設定した場合、いくつかの問題が生じます。
一つは、念仏という「行為」が往生成仏の正因として受け取られかねないという点です。いわゆる「称名正因」というやつです。
これについては、「行一念義」という安心論題にて、細かく議論が行われております。
たとえば、『教行信証』「行巻」に「念仏成仏これ真宗」とあり、同書「信巻」には「念仏往生」と示しながら、「涅槃の真因はただ信心をもつてす」とする記述があります。そもそも、念仏と信心が離れないのが親鸞聖人の教えですから、念仏が伝わったことを持って伝道成立と考えても問題はないと思われます。
また、別の問題点として、信仰心のない念仏や、真似事としての念仏などの、いわゆる「から念仏」をどう扱うか、という問題です。
そもそも、名号南無阿弥陀仏が機にある状態を信心と言い、それは称名念仏という形で衆生の上に発声し、聞こえる念仏として他者に伝わっていくのが、真宗伝道の基本構造です。
「から念仏」(信心獲得していないと思われる念仏)をどう扱うか、という疑問が生じるのは至極当然のことでしょう。
しかし、仮に「から念仏」であったとしても、法頓機漸の論理で言えば、機(わたし)の受け取り方に失があるだけで、念仏(法)そのものの真実性は普遍であり、その法の側からみれば称名念仏(信心獲得した後の念仏)となんら変わりありません。
役者が台本として発する念仏であっても、牧師さんがとなえる空念仏であっても、動物がたまたま真似した念仏であっても、そこに仏さまがいらっしゃることに変わりない、と受け取るべきです。
他者の信心のありようを探ることは、仏さまの仕事であり、人間には不可能です。
そうであるならば、どのような念仏であれ、それはわたしに届く仏さまと受け取るべきです。
このように、仮に「から念仏」があったとしても、念仏によって信心が伝わっていくことに変わりありません。
ですから、「念仏をすすめる」ことによって(結果的に)信心が伝わることこそ、浄土真宗伝道の本質なのではないでしょうか。
よって、目に見えない信心獲得という内的現象や、教義理解の浅深を伝道成立の判断基準とするのではなく、口に出ている念仏や礼拝という目に見える現象をもって伝道成立とみなす方が現実的だと思うのです。
考えてみますと、法然聖人や親鸞聖人が、当時文字も読めない人々に伝えた念仏は、それを伝えられた多くの人々にとっては素朴な信仰生活の中での念仏であったはずです。
現代の伝道においても、理解は浅くとも素直に念仏する人々や集団が存在します。
わたしたちはその方々を、正当と認められる教義理解がないということをもって念仏者ではないとは言えません。
特定の宗派にとって正当な教義理解を伝えることのみが伝道である、と限定し、門戸を狭めてしまったならば、もはや浄土真宗は民衆の宗教としての輝きを失うでしょう。
念仏が伝わり、人々の信仰生活の中に名号南無阿弥陀仏が浸透したことを伝道の成立と考えるところにおいて、幅広く生き生きとした信仰の伝播が存在するのではないでしょうか。
「築地本願寺の隣にあるお寺 法重寺」
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