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伝道の定義

更新日:2019年7月5日

先日、お酒の勢いで先輩に「伝道の定義」について自分の思うところをお話しすることがありました。


すると、先輩がそのことをブログで取り上げてくださっていました。


自分の考えの整理のためにも、浄土真宗における伝道の定義について、現時点での持論を書いておきます。


浄土真宗の教団は、「伝道教団」と言われます。

わたしたちの教団は、仏教・浄土真宗の教えが伝わりひろまっていく有様について、常に考え取り組んでいます。


しかし、これだけ重要な「伝道」が、そもそもどのような状態を目指しているのか、あるいは、どの時点をもって成立したと見なすべきなのかについては、コンセンサスがないように思います。


わたしの問題意識は、教団が「伝道」を目標として掲げるならば、教団に所属する全員が共有できる、明確で客観的な判定基準を設定しておく必要がある、ということです。


もちろん、そのようなものは必要ない、という意見もわかります。しかし、成果主義な今日の状況で、あまりにもコンセンサスがないように思うのです。


そこで、 伝道について、明確で客観的な判定基準について考えてみます。

浄土真宗の教義においては阿弥陀如来の本願力によって賜る「信心」こそが往生成仏の正因です。


このことから、当然に浄土真宗の伝道の成立は、伝道対象者が信心獲得したか否かです。


しかし、信心獲得という内的な現象は当然目に見えず、外部から判断出来るものではありません。客観的に判断出来ないものを判断基準とすることは不可能です。


つまり、 信心成立は目に見えないのです。


次に、客観的に判断出来ない信心に代わり判断基準となり得るのが、教義理解の度合いです。


伝道対象者の教義理解を調べ、その結果を判断基準にするということが考えられます。「領解文(改悔文)」もまたこのような判断基準に基づき成立したものでしょう。


しかし、わたしは教義理解を伝道成立の判断基準とすることには問題があると考えます。


浄土真宗はそもそも民衆の宗教です。教義理解を基準として伝道を考えた場合、教法を理解出来ない者への伝道は成立しがたいです。十方衆生へ開かれた宗教の判断基準がはたして難解な教義を理解しているかどうかということを基準にしても良いのでしょうか。


これは、信心、安心、領解などの宗学用語を精査し、たてわけを明確にする必要がありそうです。


ところで、浄土真宗本願寺派第二四代宗主・大谷光真先生は、教義理解にこだわり過ぎた伝道を以下のような言葉で危惧しています。

 

「お浄土へいきたいかどうか」ということを、考えたことがない人にむかって「自力ではだめで他力でないといけない」という教義レベルの話をしても通じないということがあると思います。(中略)決まった答えはないとしても、どういうふうに考えて対処するかということは常々学んで置く必要がある思います。(大谷光真「実践真宗学研究科に期待すること」(『龍谷大学大学院実践真宗学研究科紀要』五、二〇一六)一頁。)

 

「教義レベルの話をしても通じない」と、大谷先生が指摘するように、伝道対象者に対し、教義を理解させることにこだわりすぎると、伝道の本来の意味を見失います。


つまり、教義理解を軸にした判断基準は否定すべきです。


以上のように、信心は目に見えず、教義理解は門戸が狭すぎるため、わたしは伝道対象者が「念仏をするようになる、もしくは念仏を聞くようになる」ことをもって伝道成立の判断基準としてはどうかと考えます。


換言すれば、口に出ている念仏や礼拝という目に見える現象をもって伝道成立とみなす、ということです。


(続く)


「築地本願寺の隣にあるお寺 法重寺」


#伝道 #真宗伝道 #念仏 #実践

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